ブラジル料理と彼女の肖像

ブラジル料理と彼女の肖像

今夜、そのブラジル料理店で食事を共にするのは知らない男が3人、知らない女が5人、そして友人と僕、・・・ 全部で10人だ。夜になってもなかなか雪になれない2月の雨がただ忍耐強くアスファルトを濡らしている。約束の時間を少しまわりそうだったので店に電話を入れてから雨の交差点をゆっくりと渡り切った。

一本路地を入ったところに店を見つけ、軒先から垂れる雨のしずくをよけるようにして店へ入った。コートを店の人へ預け一番端の席につくと、頃合いを見計らったかのように生ビールが運ばれてくる。こうして10人の食事は始まったんだ。始めのうちは、これがブラジル料理なのか地中海料理なのかさえ、さっぱり区別もつかなかったけれど、コース料理が進むにつれ、もうこれは決定的にブラジル色を濃くしていった。最後、ブラジルコーヒーの香り沸き立つテーブルで、いよいよブラジリアの鐘でも鳴りだすんじゃないかって思えたくらいだった。

横の席に涼しげな女性がいた。明らかにきつめの店内照明と正面の空調機が彼女をこれでもかと暖めていたので彼女は頬を火照らせていたけれど、それでも彼女はあくまで涼しげだった。彼女のもって生まれた涼しげな肖像はたとえそこが熱帯雨林のジャングルであったとしてもやっぱり変わらないのだろう。決して自分からはボールを投げない、でも投げられたボールは彼女特有の周りのみんながはっとするような素敵なことばと表情と、そして何よりもその心地よい意外性で返球する。彼女は自分らしさを素敵に表現することのできる術を心得ていて、僕はそのことに食事が始まって5分もしないうちに気づいていた。彼女のその存在を感じることができただけで今夜は充分に心地いいひとときとなった。そんな感覚にひとり浸りつつ、テーブルのそこここで沸き立つお喋りと笑いの渦に適度な相づちを打ちながら、食事は進行し平らげられたお皿の山がテーブルに築かれたころ、3時間の食事は終わりを向かえた。

10人の男女は店を出て雨上がりの夜を帰路についた。偶然、彼女と僕だけが同じ方向だったので、ふたり同じ種類のブラジル料理をお腹におさめて、夜11時の地下鉄ホームで闇の彼方から風が近づくのを待った。けれどなかなか電車は来ない。無風無音の世界が僕の焦燥感を煽り、そんな中、僕は彼女に「君のその素敵な振る舞い」についてどうしても話してみたくなった。けれど、どんなふうに切り出せばいいのか見当さえつかなかった。風のないホームで彼女のストレートの髪は微かにそよぎ、彼女は涼しげに僕の横にただ存在しているだけだった。そんな感覚的な時間の経過が僕の中の「もどかしさの器」をいっぱいに満たす頃、やがて止まっていたかと思われた現実の時間が動き出した。どこからともなくホームに風が湧いて、気づけば僕たちの前で銀色のドアは開いていた。ふたりシートに座り、さすがの彼女も捕れないくらいのくだらない言葉を(本当に不本意ながら)投げ続けたあげく、次の駅で彼女と別れた。

なんて言えばいいのだろう。

「今夜は本当にありがとう。そうしてまたいつか、君のその素敵な振る舞いに接するチャンスがあれば幸いです。」

注:文中のブラジル料理店は、神保町(東京都千代田区)交差点近くにある「ムイト・ボン」。お店に関する文中描写については一部フィクションが含まれています。

hanalei malte 著「life, love, and the internet」

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