オイルサーディンの缶を開けて
梅雨入りはしたものの、まだ雨はやって来ない。もう二週間になるというのに。
今日一日を慌しく終えて、気がつけばこうして電車の中、つり革につかまり車窓に映り込む自分がいる。それにしても暑い夜だ。顎のあたりにじっとりと汗を感じる。今年もまた夏がやって来るんだな。夏の予兆は確かな理由も告げず、どこからともなくきちんとやって来ては僕をしばし忘却の彼方へ誘(いざな)う。窓の開かない快速列車は次々と駅を飛ばし、シャツは蒸し蒸しといよいよ重く、隣でサラリーマンのめくる週刊誌のページさえもがじっとりと湿気を帯びて柔らかくしなっていた。生ぬるいオイルサーディンの心は、いつしか大海で群れをなして潮に踊った。
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あの年も梅雨の到来は遅れていた。僕はカラ梅雨のどこか見当違いな太陽を浴びて海岸に座りずっと潮の行方を見つめていた。伊豆半島の東側、太平洋に面して点在する小さな町々のひとつ、「今井浜海岸」にある海沿いのリゾートホテルで僕はその年、長期のアルバイトをしていた。この時期のリゾートホテルは閑散としている。誰も好き好んで梅雨雲の低く垂れ込めた灰色のリゾート海岸を満喫しようなどとは思わないから。ただ、だからと言ってアルバイトが楽なわけではなかった。宿泊客は少なくとも僕たちアルバイトにはやるべき仕事がたくさんあったのだ。リゾートホテルにとってオフシーズンとはただ客室稼働率が低く非効率に時間をやり過ごすべく存在するのではなく、閑散期には閑散期にしかできない仕事というものをちゃんと抱えているのだということもこの時、初めて知った。
僕はその日、朝からショートパンツにTシャツという格好で屋外プールの清掃をしていた。梅雨が開けるか開けないかくらいの時期に屋外プールはオープンするので、今からその準備をしておく必要があるのだ。カラ梅雨の太陽がギラギラと水を抜かれたプールの底を挑発しているようで、これじゃ「屋外プールを使わせて欲しい」という宿泊客の要望がフロントに届くのは時間の問題のように思えた。もしかするとそれを見越しての早めのプール清掃だったのかもしれない。11Fフロア、客室の一角には2日前から設備と内装の工事業者が入っている。極めて神経質に時間を選んで掘削機の音が申し訳なさそうにくぐもって響いている。シーズンへ向けてスウィートを増室するのだそうだ。巨大な1Fエントランス・フロアにも人影はほとんどなかった。これがシーズンだとチェック・イン/アウトの宿泊客で空港の発着ロビーのような忙しさになるというのに。そんな静かなフロアの片隅で、ホテル敷地内の全ての緑化プロデュースを手がける女性が巨大なアトリウムを彩る植栽の入れ換えを的確に指示している。ホテル全体が、やがて来たるシーズンへ向けてあちらこちらで装いを新たにしているといったところだ。
「ここにパスタオル置いておきますから。よろしければ使って下さい。」
パントリーの女性がプールサイドに立っていた。彼女は今しがた業者が納めたタオル類を整理していたようで、プールの脇を通ったついでに一枚置いて行ってくれたようだ。
パントリーの女性は地元採用であるケースが多かった。彼女たちとはすぐに仲良くなれた。僕たちは何よりも若かったし、東京から来た僕と太平洋に面した半島の小さな町で生まれ育った女の子というマッチングに、僕たちは避ける余地のない魅惑的とさえ表現できる強烈な抑えがたい刺激を感じ合えたからだ。それはまるで焚き火に放り込まれたマッチ箱のようにいとも容易く当然の帰結として発火した。
バスタオルがきっかけとなって彼女とはその後、何度となく顔を合わせ言葉を交わしそして当然の帰結として親しくなった。閑散としたリゾートホテルとその眼下に広がるプライベートビーチ。昼は灼熱の太陽のもとで笑いあい、夜は銀色の月光が波に揺らぎ、その波間を縫って渡り来る潮風で僕たちの火照る素肌を冷ました。朝早くから額に汗して働いて、お昼はホテルの従業員用ランチを食べ、冷たいミネラルウォーターをぐいっと飲み干して、それからまた西の稜線に日が落ちるまで働いた。そして、太陽と月の運動に委(ゆだ)ねられた日常の繰り返しに、僕は由緒正しい労働のかたちを体感することができた。リゾートホテルと太陽、心地よい労働、そして彼女との熱い夜、涼しい夜、それらはあまりにバランスがとれていて、パーフェクトに満たされていたために、その絶対的な安定感故にかえってフラジル(fragile)な側面を予感させずにはいられなかったくらいだ。
そんな日々がどれほど続いたのだろう。ある日、本格的な梅雨の到来。朝から重くしな垂れた灰色の梅雨空のもと、細かく忍耐強い本物の梅雨の雨が降りそぼっていた。東京へ戻る日も近づいていて、僕たちのつかの間のリゾートホテル・ラブもカラ梅雨の太陽と共にどこかへ消えた。
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ふと我に帰ったとき、快速電車は減速を始めていた。間もなくホームに滑り込み、停車する。もう何年かぶりにドアが開くという感覚だった。熱帯雨林のジャングル的湿気で満たされた車内で、乗客にホッとした表情が浮かんだ。ドアが開いて乗降客が入れ替わり、濡れた傘を片手に新しい乗客が乗り込んで来る。外気が車内のよどんだ空気と混ざり合い、その瞬間、この梅雨、初めての雨の匂いを嗅いだ。どこかひんやりと湿って埃が浄化されたような風の匂い。いよいよ梅雨が来たんだな。ドアは閉まり僕は腕時計に目をやる。G-SHOCK2014のタイドグラフはIMAIHAMAの満潮を示していた。
今この瞬間、あの岩陰で僕たちのすぐ傍まで潮は迫り、いつしか波のリズムに誘(いざな)われるままに、どこまでも深く、気の遠くなってしまうくらい・・・、僕は車窓に映る自分をしっかりと見つめ直した。これからだって、この東京の複雑で猥雑な巨大システムの中を気持ちよく泳いで行けるさ。もしもやりきれなくなったときは、そのときはまた自分の場所を探せばいいんだよ、なっ、オイルサーディン。
hanalei malte 著「life, love, and the internet」