山手線、雑感
週末の夜遅い時間、わたしは混雑した山手線に揺られていた。車内には週末の喧騒と疲労とが半分ずつ入り混じったような匂いが据えている。早く部屋に戻って熱いシャワーに打たれたかった。せめて精神だけでもこの状況から解放させたくて、頭のスイッチをカチカチと切り換えてみるもののそう上手くいくわけもない。仕方なく、またジャグジーからほとばしる湯と、湯気の向こうにかがやく真っ白いタイルを想像した。
ひとつ前の駅を出た頃、すぐ目の前で背中を向けて立っている乗客に見覚えがあることに気づいた。そうだ、間違いない、わたしがかつて付き合っていた男だ。わたしはその事実をぼんやりと頭の奥の方まで追い詰めていた。どうしてこんな男にわたしはのめり込んでいたのだろう。この男のどこがその他大勢とは違う特別な存在だったんだろう。わたしは徐々に自問を始めていたけれどその先へは進めないままにいた。今更どうでもいいことだった、ばかばかしい。退屈しのぎと言ってはなんだけど、ついでにちょっと詮索もしてやった。その髪、服、鞄、靴、指、そして背中、目の届く範囲にあるものすべてを注意深く観察してみた。そして、それらの全てが、彼の遺伝子の一部であるようにあの頃の彼を多かれ少なかれ継承していることを確認した。その帰結はわたしをさらに深く陰鬱にさせ、ただひとつ「ふうっ」と地底を這うようなため息をつかせた。
列車が揺れるたび、わたしの身体の一部分がその男に接触する。それはとても奇妙な感覚だった。過去の一時期、狂おしいほどに求め合いふたりして激しく揺れた体と体が今はこうして無関係にただ存在している。どんなに高い山だって、どんなに深い想いだってなんだって、この世で時間に流せないものなんてないんじゃないかって思えた。この先、この男がわたしに気づくことはないだろう。男の嗅覚を刺激しているであろう、わたしのこの香水にしたって、そこにあのころのわたしは微塵も残っていない。たとえ目が合って彼の視線がわたしの瞳の底まで届いたとしても決してわかりはしまい。この男には関係ないことだけど、あれからわたしは自分のすべてを焼き尽くし、その灰までをもハリケーンで巻き上げて、そうして焼き焦がれ、ひび割れ、大洪水に洗われした大地に芽吹いた新芽のひとつに自分の核を宿して今日までを生きてきたのだから。
恵比寿駅が近づいた。混み合った車内、降り際、わたしはその男の腕に自分の胸をたっぷりと擦り付け、顔をのぞき込むようにしてホームへ吐き出た。その男は少し驚いたようにわたしを見たけれどわたしには絶対に気づかれない自信があったし、当然、気づかれなかった。あとは熱いシャワーだけ。
hanalei malte 著「life, love, and the internet」